社長ブログ

社長フィロソフィー日記

未来を予測する

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​最近、またブログの更新頻度が下がっていることを社員の前田くんに指摘され、サボっててはいかんなと思い直して再開。
最近の社会はコロナの話題がずっと続いていて、社会や経済のあり方も強制的に大きな変化が起こっている。GDPの昨年比が四半期でマイナス30%近いなんて、誰が予想したことだろうか。ほとんどのイベントが中止になり、出張がなくなり、在宅勤務も普通のことになっている。今年は1年間、ずっとステイホームな感じでつい半年前まで会食や旅行、出張に明け暮れていたのが嘘のようである。
とは言え、世の中は動いているし動かさないといけないから、ではどうやってこの新しい状況に対応するか、そしてそこから進歩していくかが課題となる。当社では、以前から(多分20年前から)インターネットやソフトウェアを使って情報共有に務めていたり、組織の階層・役職をなくしたり、稟議などの書類仕事をなくしたり、チームワークを重視して成果主義を採用しなかったりしてきたから、今のリモートワークにもほぼ完全に対応出来ていると思う。リアルなセミナーもウェビナーに変更し、以前よりも頻度をあげて開催したりもしている。もちろんプラス面とマイナス面もあるのだが、これも「新しい現実」に対応して、生産性や付加価値を向上させる試行錯誤として、そのうち常態になっていくのだろうと思う。
で、未来は正しく予測出来ないのは確かなのだが、コンピューター科学者でパソコンの父と呼ばれるアラン・ケイの言葉が秀逸だ。曰く、
「未来を予測する最善の方法は、自らそれを創りだすことである。」​
​​なかなか出来ることではないけれど、新しいことを始めて、それが世の中に普及して「当たり前のこと」になると、一部分であっても「未来を創った」ということだから「予測は当たった」ということになるのだろう。
当社は、防虫業界というニッチな場所にいるけれど、その未来を創っていきたいと思う。人工知能を使った防虫モニタリングの仕組みを開発しているのだが、それも未来を予測し創り上げることだ。また一戸建て住宅を長年に渡ってメンテナンスする仕組みも開発している。これも普及すれば、未来の一部を自ら創ることになる。新しいことはチャレンジングだけど、成功するまで諦めずに頑張りましょう。

誰が守るのか。

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最近のコロナウイルス感染症の関係で、いろいろな活動が制限されている。イベントは延期・中止、外出も自粛ということで、経済活動も停滞してきている。
企業として考えないといけないのは、社員の活動方法、内容である。当社でも3月の全国セミナーは5月に延期、4月のセミナーも実施できるかは予断を許さない。もちろんウェブでの開催も用意しているが、やはりそこに人が集まっての場の雰囲気も大事なので、なるべくなら集まってのセミナーを開催したいと思う。
この様な環境下で、企業によっては自宅勤務(=テレワーク)や出張禁止、会議も延期などの措置を取るところもある。特に大企業はそうで、多くの社員を抱える組織では「原則自宅勤務」の様なことも止むを得ない場合があるだろう。
もちろん当社でも日々考えている。幸い、当社は、工場はなく実務サービスも提供していない「コンサルティング商社」の業態のため、また情報共有や意思決定はほぼクラウド化しているので、特に特別な措置は必要がない。営業担当者も原則直行直帰なので、これまたリスクが低いとも言える。そもそも僕もあまり社員と会ったり、毎日長時間会議したりしていない。
とは言え、例えば出張を禁止するとか、電車通勤を禁止する(=テレワーク)とか、大企業の様にとり得る選択肢はなくはない。だからこそ、経営者として社員にどう発信するのかは日々考えることではある。
で考え続けて思うのだが、究極、僕は「自分の身は自分で守る」ということを言いたい。会社に来なくてもプライベートで外食したり、ついカフェに寄って休憩したり、一方でマスクをしたり、密閉空間を避けたり、個人の生活も含めて考えた時に、リスクはそこら中にあるし、かつそれを避けることも個人の判断として実際上行っている。家族に対しても同様に注意したり、何かと備えをしていると思う。それが大事であって、会社に言われたからといって何かを自粛したり、会社に言われないからと言って何も気をつけないというのはおかしいと思う。
だから当社では、リスクを避けるためのツールは用意しながら(ウェブ会議の仕組みとか自宅で勤務出来る方法とか、万が一感染者が出た時の社内消毒の資材とか)、また自分で危ないと思えばそれを避けることも(訪問はやめてウェブで打ち合わせしますとか)、何の問題もなく受け入れることにしている。要は、個人の判断で自分の身を守る、それでいて生産性を下げない様な工夫をしてください、そのためにはいろんなやり方やツールは提供します、ということである。その対応が一律でなくても良いし(リスクに対する感受性も人に依って異なる)、ある社員が参加しているのに他の社員が参加していなくても誰も咎めない。
子供の頃から先生や親の言うことを守ってきた人たちには、この様な「一律でない対応」は分かり難いかもしれない。でも自分の頭で考えて、自分で責任を持って行動し、尚且つ結果も出す(人に依ってやり方も違う)。そして良いと思うやり方は皆で共有すると言う、「独立した自律的な社員」が望ましいと思う。
なので、電車通勤がリスクだと思うなら、会社の近くのホテルに泊まり込んでレンタル自転車で通勤したら(なんでもあり)と言うのだが、誰も実行はしてはくれていない。

情報が不足している中で判断するのがリーダー

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最近のコロナウィルス騒ぎで、多くのイベントや活動が停止してしまった。各社、各個人の捉え方や対応は様々だけど、日本国内においては(今のところ)瀬戸際で抑え込んでいる方だと思う。
当社でも恒例のレベルアップセミナーを直前になって延期したり(5月にやります)、会合などが中止、延期になったりした。学校の部活動も大会も中止、(趣味の?本職の?)水球活動も、初の全国大会出場(17歳以下の全国大会、大阪代表チーム)が決まっていたのに中止になるなど、かなりの制約を受けている(とても残念)。
こう言う事態に対して、毎日状況が変化する中でも、リーダーは毎日判断を下していかねばならない。ピンチの中にチャンスもあるし、ピンチを組織の存亡に繋げないような危機管理も必要だ。その場合に、情報が足りていると言うことはまずない。自分が専門でないばかりか、専門家の意見も様々で、正解などはその時には分からない。後になって振り返ればもっとうまくやれたと言う「ベスト回答」があるんだろうけど、その時には誰にもリーダーにも分からないのが現実だ。
リーダーでなければ、「どうしてその結論、対応に至ったのか」と言うプロセスさえ正しければ、また安全サイドに傾けて判断して、その反対側にある機会損失が許される傾向にある。リーダーであれば、プロセスはなんであっても(リーダーの勘であったとしても)、「結果」で判断されるだけだ。しかもその結果はすぐに出るものでもない。事態が収まってからと言うより、数年、10年20年経って「その時の判断」が良かったか悪かったが分かることもあるだろう。
そう考えると、リーダーの資質として「他人の評価を気にせず、自分だ正しいと思ったことを躊躇せずやれる」と言う、少し人格破綻者?的な要素が必要だと思う。他人の意見は意見として聞き入れ、その上で自分が正しいと思い、実際、後で振り返って見てやはり正しかったことが証明されるような精度の判断が出来ると言うことだ。その意味で安倍首相の「休校措置」は非難もあったし、高齢者の活動制限とのバランスも欠いていた面もあったと思うが、結果としては世の中が自粛ムードになって活動が抑制され、ウィルスの拡散には一定の効果があったと思う。後から考えて、まあ仕方ない、妥当な手段だったなど思う(でも、水球の全国大会が中止になったのだけは許せない)。
次の難問はオリンピックだ。後数ヶ月で、何万人の選手が日本に集まり、数百万人の観客が世界から押し寄せるイメージは全くない。イタリア代表チームを茨木市(茨木高校)に招待までしている僕としては、中止になってしまうのは本当に悲しい。せめて延期になれば良いのだけど、IOCがアメリカのスポンサーに頼っている関係で、それも難しい(秋は野球とアメフト中継がある。来年夏も世界陸上、世界水泳、再来年はワールドカップ)。そうだ、アメリカのスポンサーが支払うであろう放映権、日本が国で買い取ったらどうだろう。そもそもはホスト国が国を挙げて行う、国際イベント、アメリカの放送局に牛耳られているのがそもそもおかしい。2000億円でスタジアムを作ったのだから、NBCが支払ったたかだか1200億円の放映料なんて日本政府が叩きつけてやって、秋にでも延期開催して欲しいと思う(特に水球)。
ここは安倍首相、情報のない中で延期開催、決断してくれないかなと思います。そしたら支持率上がりますよ。

生産性が高いということ

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生産性が高いというのは、圧倒的な速さで多くの業務をこなせる状態のことではない。ましてや、大量の業務を残業をしながら行っている会社のことでもない。
生産性が高いというのは、本質的に大事なこと、多くの課題の中から最も重要なものを見抜き、そこに注力して結果を出すことだと思う。
ここを間違えると、「解くべき問題」を取り違えてしまって、やたらに多くの「些細な問題」に取り組んでしまって時間オーバーになってしまったり、解いたところで何も事態は変わっていない、好転していないことすらあり得る。問題を解くスピードが遅いのではなくて、解くべき問題を間違っている状態が「生産性が低い」状態となって現れる。
企業活動も、幾らやっても報われない衰退市場、激戦市場で頑張ったところで、結局は「最も安いところが勝つ」市場であれば、誰も勝者がおらず単に消耗するだけ、結果として「生産性が低い」という烙印が圧されてしまう。社員は頑張っているのに、「間違った市場」にいる限りは、勝つこと、幸せになることは大変難しいと思う。
勝てる市場を選ぶ、その中でも本質を考え抜き、創意工夫を凝らして他社と差別化することで、努力の量が結果に結びつく。これが「生産性が高い」状態だ。当社ではそれを「レバレッジが効かせる」と呼んでいる。
当社は、特に個人として「仕事ができる人」はそんなに多くはいない(もしくは、いない?)。しかし防虫業界というニッチマーケットの中でも、業務向け開発型商社、コンサルティング商社として独自のポジションを取り、セミナー活動や製品開発、ソフト開発、サービスネットワーク作りなどの創意工夫で高い生産性、高いレバレッジ効果を保っていると思う。
一番大事なことは、「跳ぶ前に考えろ」(もしくは「跳びながら考える)ということ。何が求められているのか、何が重要なのか、当社に勝算はあるのか、本当にやるべき仕事なのか、様々なことを考えて、そしてその一点に注力すること、これが生産性を高めるコツだと思います。

シドニーマラソン

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マラソン大会には相変わらず参加していて、これで始めてもう12年、回数的にも25回目位(多分)になってしまった。継続は力なりと言うけれど、確かに練習量は少しずつ減っているものの(良くない)、タイム的には4時間(練習結構した時)から4時間40分(練習不足の時)位の間に入っている。
この前の日曜日もシドニーマラソンに参加してきた。オーストラリアでのマラソンは、2016年のゴールドコースト、昨年の同じシドニーに続いて3回目である。オーストラリアは時差が1時間しかなくて、気候は気持ち良い、景色は綺麗、食べ物美味しい(クラフトビールやワインも美味しい)ということで、極めて快適だ。9月のマラソンは、日本の夏はとても練習できる環境でないので(というか、じっとしててもバテる)、あまり練習出来ずに参加となってしまう。体重もそれ程減らず、そう言えば昨年も死にかけたなあと思い出しながらも、あまり改善できなかった。
レースそのものは、意外にもハーフまでは好調でちょうど2時間、まあそろそろ脚が終わるだろうなと思っていた25キロでばったり死にそうになって失速、それでもまだ10キロ以上あるなと思いながら、歩いたり走ったり、時にはベンチに寝転がって休憩するという、なんとも意外でも何でもない結果でした(タイムは4時間35分)。
次は12月の恒例となった那覇マラソン。今回が12回目となる。僕のGarminに残っている過去9年の記録によると、年、結果タイム、9月10月11月の練習距離は以下の様になっている。

2018年 4時間12分(9月84キロ、10月156キロ、11月122キロ)
2017年 4時間18分(9月82キロ、10月132キロ、11月148キロ)
2016年 4時間36分(9月71キロ、10月150キロ、11月131キロ)
2015年 4時間15分(9月140キロ、10月166キロ、11月135キロ)
2014年 3時間59分(9月156キロ、10月142キロ、11月149キロ)
2013年 4時間32分(9月154キロ、10月201キロ、11月120キロ)
2012年 4時間6分(9月138キロ、10月171キロ、11月188キロ)
2011年 4時間29分(9月123キロ、10月187キロ、11月104キロ)
2010年 4時間43分(9月83キロ、10月225キロ、11月106キロ) 
これを見るとあまり走行距離との相関関係はなくて(2016年は28度の猛暑で例外)、「10月・11月に月150キロ走る+体重を2、3キロ減らす=4時間ちょっとで完走」という「キロ6分の勝ちパターン」が見えてきた。これから海外出張やセミナーなどで忙しくなるが、月150キロは週30キロ強、つまり平日に8キロ2回、週末に10キロと8キロで達成可能な練習量だ。体重もこれから月1キロ減らしていけば良い。こうやってブレークダウンしていくと、今年のゴールシーンが「カラーで見えてくる」から不思議なものだ。もう出来たような気持ちになってくる。
本当は、タイムよりも健康でスタート地点に立つことの喜びの方が大きい。今年も感謝しながら、準備をしていきたいと思います(社員の皆んなもな)。

トータルで責任を負う

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最近(ここ数年)よく思うのは、会社も社員(個人も)、業績や自分の人生については、自らがトータルに責任を持たないといけないということだ。
まず、会社が業績について責任を持たなければいけないことは当然として、社員に対しても報酬以外の面でも責任を負うべきだと思う。社員の健康、家族の幸せ、やりがい、そしてその会社で働いて良かったと思える満足感、それらは(もちろん社員の頑張りもあるけれど)、トータルで会社は個人に対して責任を持つものだと覚悟している。
業績をあげて原資を稼ぎ、生活に必要な報酬を支給し、その上で社員のやりがいや健康にも責任を持つ。当社では後者については「好きな仕事」を仕組み化して収益の出る「変換装置」を考え、半年に一回マラソンに(僕も)参加して(尋常でない)体力作りに励む。どちらもなかなか大変だけど、経営者も社員も同じ人間だから、何かのために何かを犠牲にする仕組みはどこかおかしいし、長くは続かないと思っている。
逆に社員も会社(=公)に対して責任を負う。裏返しの話になるのだけど、「好きなこと」を活かして仕事をして、健康面も家族などのプライベートの面でも会社に支えられている面があるのなら、公私の区別なく、惜しみなく精一杯働き、組織(=みんな)のため社会のため貢献しなければならない。
会社という(ある意味バーチャルな)組織は個人のために、個人は組織(=みんな)のために頑張るというのが、現代の組織、集団のあり方なのではないかなと思う。
簡単な言葉で説明するのは難しいけれど、「会社は個人の集まり、個人は会社によって支えられている」(逆に、「会社は個人によって支えられている、個人は会社の一部」)というのが理想なのではないか。善かれ悪しかれ、働く人は起きている時間の大部分は会社で過ごしているわけだし、そこを「公私」で分けるには無理あるというのが僕の見解だ。
従って?当社には階級も上下関係もない。同じ立場の人間が集まって、力を合わせて社会のためになるように頑張っているというシンプルな構造だ。決まった上下はなくとも、実力差はあるし専門性もある。そこは「自然と」適材適所に収まっていくというのが、これまた「正しい人事政策」でないかと思います。
なんだか取り留めないですが、最近ブログの更新が少なかったので、頭に浮かんだことをつらつらと。

2000万円足らない引退後

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金融審議会の「市場ワーキング・グループ」が作成した、「高齢社会における資産形成・管理」に関する報告書が物議を醸している。話題になっているので、全文をざっと読んでみたが、別にどうってことのない、当たり前の現状分析と対策提言となっているだけだ。
物議を醸しているのは、「引退した後に
普通の生活を送ろうと思えば、年金だけでは不足額が出て来る、その額が2000万円になる」という部分だ。金額を2000万円と明示したことや、政治家も官僚も誰もが知っていてけれど言えば損になることをずばり言ったということでは意義ある報告書だと思う。少子化に歯止めがかからず、寿命が長くなって高齢化が進み、所得も低迷が続く中、年金給付額の切り下げは不可避であることなんか、世の中の常識で、65歳で引退してから100歳まで生きても35年間ずっと国が養ってくれると思っている方が、よほどおかしいと思う。40年働いて残りの35年間は他人に養われるのだったら、年金だけで給料の約半分は税金として国に納めておかないといけない勘定になる。実際には税金は年金以外にも公共目的で使われるのだから、所得の半分は年金、残りの例えば1/4はその他の公共サービスということで、所得税は平均75%とかにしないと計算が合わない。つまり社会主義国である。毎月5万円足らないとすれば年間60万円、引退後30年で約2000万円足らないとのことだが、むしろ、月額20万円貰えて年間240万円、引退後30年で7000万円貰えることの方がよほど有り難く感じる。
まあ上記の議論は別として、一番びっくりしたのは、単に事実を分析したに過ぎない報告書に対して、憤慨したり、果ては「受け取らない」と言った麻生財務大臣だ。部下が事実に基づく報告をあげて、その内容が気に入らないからと言って受け取りを拒否する上司がどこにいるのだろう。如何に(選挙前で)不都合な事実であっても、「不都合な真実」を受けてどうするのかを考えるのが上司の仕事だろうし、少子高齢化、それに伴う将来の財政、年金破綻は誰を責める話しでもない。国民が子供を産まず、医療が進化して長生きになった結果である。
不都合な事実でもしっかり受け止めて、ではどうするのかということを個人で出来ること、国がやらねばならない責任に関して建設的に議論していくことが大事なのに、「本当のことを言いやがった」、「そんなことけしからん」、「そんなこと言われてももう無理」という反応は残念としか言いようがない。
まあ嘆いても仕方ないので、当社こそ100年続く企業を目指し(今年50周年です)、社員全員が豊かな老後を過ごせる様、死ぬまで働かせることにしよう、あ、違った、健康でしっかり稼いで貰うことにしましょう。

高い目標を掲げ努力する

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人生の成功の秘訣は、高い目標を掲げ、誰にも負けない努力をすることだと思う。その時点において高い目標を設定して努力の末なんとか達成できれば、又次、また次と次々と高い目標を設定し、それらをクリアしていくことで素晴らしい成果をあげることになる。しかし人生はそんなにまっすぐには進まないから、必ず必死になって頑張ったけれど結果が伴わなかったという「挫折」を経験することになる。
そのような時、どう考えるべきか?挑戦せずに楽をして当然素晴らしい成果を得られないと言う結果と、高い目標を設定して努力をしたけれど結果として達成できなかった挫折、どちらが良いのだろうか。
成功した時には、息継ぐ間もなく次の挑戦が待っているから、考えている暇はない。大事なのは、結果が伴わなかった時に如何に気持ちを切り替えて、失敗にも懲りずにまた新たな高い目標に向かって努力が出来るかである。言うは簡単、しかし実行が難しい。なんせ「やってもダメだった」と言うことが実証されてしまっているから、「一生懸命努力すれば上手くいくはず」と言うのは根拠が薄い。しかし一回や二回失敗したからと言って諦めていては、思い通りの願った人生を送れるはずはない。何回失敗しても「自分は出来るのだ」と言う「根拠のない自信」が必要だ。
では、「根拠のない自信」はどこから生まれるのだろう。それは持って生まれた性格もあるだろうが、やはり子供の頃から「この子は大物なる」とか「大器晩成」とか、親や周りの人が「根拠のない賞賛」を与え「無責任な希望」を持つことが必要だろう。経済的に恵まれていなくても「貧乏」と感じず、足るを知り、むしろ「豊か」だと思える心持ち、世間的には地位がなくとも自分に矜持を持っている職業人、将来は明るいと信じることが出来る明るさ、閉塞的な周辺だけでなく世界に目を向ける視野の広さ、などに囲まれて育った人は、「根拠のない自信」を持ち易いと思う。
会社経営においては、「自社は特別な存在で、社員も働き易く、会社の将来は明るく、そして社会のためになっている」と根拠なく自信を持てる会社が強い。そうであれば多少失敗したり業績が落ちてしまっても、落ち込むことなく「また明日から頑張ろう」と思うことが出来る。何回失敗しても笑って高い目標に向かってまた頑張れる会社が、そのうち本当に成功して、成長していくのだろうと思う。 

Bプラン

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人生には、自分の第一志望が実現せず、第二志望またはそれ以下の道に進まざるを得ない場合がある。いわば人生のBプランだ。
しかしBプランであったとしても、それが悪いこととは限らない。長い人生、何が幸いするか分からないし、本当に自分がやりたいことへの道筋が変わっただけで、BプランならBプランなりに幾らでもやりようはある。稲盛和夫さんも、第一志望の大学に受からず、地元の鹿児島大学に進学する。そして就職難から、専門の有機化学ではなくて無機化学の京都のセラミック会社に就職したのだが、そこは給料も遅配する様な会社で、挫折感を味わった。しかし腐らず誰にも負けない努力で周りを巻き込み、その後独立して今日の超優良企業である京セラ、そしてKDDI、更には日本航空の再建まで成し遂げ、現存する最強の経営者であり多くの人々から尊敬される経営者になった(そして縁もゆかりもない我々経営者をずっと指導してくれている)。
僕も子供の頃から外交官になって、世界平和に貢献することが夢だった。それがひょんな事で家業の中小企業継ぐことになった。外交官でも国際機関でもなく、また大学の友人たちの多くが勤める大企業でもなく、弁護士などの専門職に就くこともなく、中小企業経営者となった。だから僕の今の姿はBプランもBプランそのもの、CプランかDプランなのかも知れない。
むしろずっと第一志望でAプランだけでいける人生の方が珍しいのではないか。思い通りのAプランの人生には思わぬ落とし穴が待っている場合もあるし、謙虚さを忘れて自ら墓穴を掘ってしまうことも十分あり得る。上手くいっている時こそ謙虚にして驕らず、誰にも負けない努力を継続することが大切なのだが、人間なかなかそこまで悟ることは難しい。
Bプランになってしまって当初は不本意だったとしても、初期の目標、高い目標を諦めず、臥薪嘗胆しながらも明るく前向きになれる人間が本当に強い人間だと思う。 いや、Bプランに進みながら、最終的に大成する人が、むしろ本当の価値がある。若い頃は苦労は買ってでもしろと言われるが、それはBプランでどこまで這い上がる経験を積む時期だからだと思う。
Bプランに進んだ様に見えた僕の人生も、気がつけば(Aプランでずっと進んだ人も含めて)友人の中でも一番良い人生を送れていると思う。そして当初の目標、自分の力と独特なやり方で「世界をより良く、平和にする仕事」に近づいていっている。途中経過は何でも良い、どんな道を通ろうと、折れず腐らず視点は高く、ずっと努力していきたいと思います。

迅速な経営

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様々な組織を見てみると、当社とは根本的にやり方が違うなと思うことが良くある。
担当者は、その人が決定権を持つことについては(当然)自分で判断できる。自分で判断する訳だから、そんなに時間は掛からない。大抵の問題は数分考えて結論を出すくらいの話だし、數十分考えて判断が出来ない場合には、判断材料が足らな過ぎるか、設問自体が間違っているのだと思う。
時間が掛かるのは、その人が決定権を持たないことについて、その上司に判断して貰わないといけない事柄だ。その人に決定権がない=その人では判断できない、能力や知見が足らないと言うことなのに、その上司が判断できるだけの材料をその人がどうして準備できると言うのか。まるで生徒が先生に問題を出す様な話で、生徒が問題を出して先生に答えて貰うなら、その生徒は「先生以上」と言うことになってしまう(大抵はそうでないので、成り立たない)。
担当者があーでもない、こーでもないと考える時間は、無駄だと思う。担当者が解決できない、整理できない問題を一刀両断に判断するのが上司の役割であって、部下に完璧な判断材料を揃えさせて誰でも判断できる様になっているのであれば、その上司は不要だ。こんなことをさせるといつも判断が遅れ、結果として「迅速な経営」はできなくなってしまうと思う。
おそらく正しい「今時の組織」は、トップが最も難しい問題を解いていく、次に難しい問題を次に高いポジションの人が解いていく、普通の人が解ける問題は普通の担当者が取り組むと言う、「試験会場で一斉に、異なった問題を解いている」雰囲気の会社でないかと思う。
当社には稟議書はない。稟議書が必要なほど組織が大きくないからと言うことではなくて、「上司にお伺いを立てる」と言うプロセスがないからだ。担当者の手に負いかねるなら、それは担当者からその仕事を「奪って」上司がやってしまえば良い。上司の仕事とはそう言うものだと思う。
と言うわけで当社では、実力がなければ役職で威張ってられない。だって、役職は「自己申告制」で、実力があって難しい問題に取り組む気概があれば、誰でも何でも役職を付けてもらっても良いから。ただし、「社長」以外。

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