社長ブログ

社長フィロソフィー日記

名前を覚える

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今週は毎年行っている、害虫駆除関連の国際会議・見本市にフロリダのオーランドまで行ってきた。この15年ほど毎年参加しているので顔見知りも多くて、あちこちで立ち話が始まる。展示されている商品も見慣れたものが多く、それでも幾つかは新しくて日本でも販売してみようかなと思えるものもある。そしてすでに取引している会社との打ち合わせも数件行った。
もちろん朝は社員と共にランニングで、ディズニーランドの近くを1時間ほど。朝日が登る前にホテルを出て、帰ってくる頃にはちょうど夜が明けているって感じだ。
1年ぶりくらいに見かける人たちから、名前で呼ばれることはなんだか嬉しい。名前を覚えてもらってないだろうなと思っている人から、KATAYAMA-SAN!とか呼ばれると意味もなく、嬉しくなってくる。そういえば先週参加した会で、都内で有名なレストランを経営している人の講演を聞いたのだけど、自分を知らないはずの人から親しく名前を呼ぶと顧客にとても喜んでもらえるらしい。ウェイターはもちろん、ドアマンであったり誰でも、顧客情報システムを活用してカスタマイズされたサービスを提供している。お店の前で出迎えるのはもちろん、予約電話でも電話番号を基に顧客情報を見ながら話ができる。その経営者が一番びっくりして涙が出そうに嬉しかったのは、ホテルの部屋を出て廊下を歩いていたら、他の部屋を掃除中の年配の女性から自分の名前を呼ばれて、「いってらっしゃいませ」と言われたことだったらしい。それは確かに驚きだなあと思う。
人の名前を覚えて呼びかけるというのは簡単なようでなかなかできない。でもそれは自分がその人のことを気にかけていて、他人と混同したりせず、しっかり覚えていますよというメッセージを発していることなのだ。仕事でも、久々に会った人に「改めて名刺交換を」とかよく言われてそれはそれで仕方ないなと思うけれど、名前を読んでもらって昔していた話を覚えて貰っていて「あれからどうなった?」とか聞かれるときっと嬉しいのだろう。こっちはきちんと覚えていることは相手にも伝わっているなんて言い訳せずに、人に会ったら名前で呼びかけて自分の相手に対する関心をしっかりわかってもらおうと思います。

仕事のやり方

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仕事が出来るっていうのは、多分に「状況把握とその後の展開予想」がしっかり出来て、頭に浮かんだストーリーに従って、今何をすべきかが分かることを言うのだと思う。よく「一を言って十を分かる」という言葉があるけれど、ある課題や宿題が出た時に、一瞬にして筋道が分かって「筋の良い」仕事の段取りが出来る人が「仕事が出来る人」ということなのだと思う。
逆に良くないのは、そんなことをすれば(言えば)ああなってこうなって、結局その努力が無駄に終わることが目に見えているどころか、他人(他社)までに迷惑をかけてしまうことである。それが善意だけに始末が悪くて、良かれと思ってやったことが自分の成果にもならないどころか、他の人まで巻き込んで、結局「あいつの話しは乗ると損」みたいな評判になってしまうことが一番良くない。下手に説得力があって、多少の能力があると他人は騙されるから(騙す方も騙しているつもりはない)、結局大騒ぎして何にも実績が出ないという展開はやってはならないと思う。
仕事が出来る人は、状況を正しく理解し、それぞれの利害関係者、最終的な顧客の立場を理解して皆に良い結果が出る様に調整して、周りの人のニーズも同時に満たす様な解決策を瞬時に考え、何も無駄な努力が発生しない様に人々に仕事を振り分け、効率的に物事を進め、最後は利害関係者のメリットになり、自分もしっかり実績を出す様な人である。要領が良いと同時に、結局は周りの人も幸せになり、社会のためになる訳だから、仕事が出来るというのは善、仕事ができない人はただの迷惑(=悪)ということだと思う。
当社は当然社会に対して善をなしたい。従って、正しく筋の良い努力をして、周りの人たち、会社を幸せにしていきたいと思います。

「立場」というもの

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最近「立場」という言葉をよく聞く。「私の立場からしてそれはできない」、「私の立場というものもありますから」、「私の組織の立場からしては」などと立場、立場と話に出てくる。「立場」とは社会や組織におけるその人の位置づけ、その人の機能を示すものである一方、自由な人間としての能力、組織の行動範囲を制約するものでもある。「立場」と呼ばれるものを離れて「人間として何が正しいか」を考えてみれば容易に分かる話しであっても、「立場」が絡むと途端にややこしくなる、時には人間として正しくないことも(その組織では)正当化されてしまう恐ろしいものでもある。本来は、何か課題があったり問題があれば、関係者が集まって解決のために何をすればいいかを考えれば良いだけなのに、「立場」を考慮し始めると、それぞれの制約事項が多くなり、パズルの様にうまく組み合わせないと出来るものも出来なくなってしまう(ことが世の中にはむしろ多い)。「ご趣旨は分かりますが、私の立場からするとOKとは言えません」、「本来は当社のトップが判断しないといけないのですが現状では難しい」、「うちの立場からすればそれは無理です」とかいう言葉は、物事を停滞させ進歩を阻害する「魔法の言葉」(勿論悪魔)であって、「立場」と口にした途端に思考停止に陥る脳内麻酔薬みたいなものだ。
当社の方針は全く逆で、立場なんて気にしないし、社内でも役職名さえ勝手に考えて貰っている(この間も名刺にどう肩書きを書くかを決めていた)。役割はその場その場で得意技と状況を見て決めれば良いし、外との関係においても、他の組織がやらない様なことをやると言う意味では、立場になんて拘っていない。だから薬剤メーカー的なことをやったり、組合本部、商社、ソフトウェア開発、セミナー活動、ボランティアなど、事業は何でもござれで一体何屋さんか分からないほどである。
中小企業が「立場」に拘っていればその発展はない、ましてや元々万能でもさほど優秀でもない人たちが「立場」という制約条件を自らに課して思考停止に陥るなんて、人間としての成長も止まってしまうのではないか。「立場」を離れて「人間として何が正しいのか」を考えた上で出た結論を、今度は「立場」に戻って「立場」を利用して実現出来ないかを考えるのが、本来の姿だと思う。

まずは本番

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また高校の水球練習を見に行って感じたこと。競泳の練習をしている時にはタイムを切られて必死になって追い込まれている感じはするのだが(合宿だと100メートル100本とかやる)、水球の練習に移った途端になんだかのんびりムードが漂ってしまう。結果として、泳げるはずなのだが水球としてはとても弱いチームになってしまっている。勿論競泳もそれなりだから(水球部だから)、練習はそれなりにしんどいのに弱いという何とも中途半端で不幸な状況になってしまっている。
これは水球の練習のやり方が間違っているからだと思う。競泳の練習と同様、ボールを持った選手たちを如何に追い込むかが課題になる。じっとしてシュート練習をするのではなくて、30メートルコートを往復させてからシュートを打たせるとか、実際のゲームに即した場面を作り上げて限界のところで練習しないと意味がない。しんどい試合を意識して、また全国大会で良い成績を収めることが目的なら、例えば準決勝での試合のレベルを意識して練習するべきである。泳力、ゲームプラン、力技のどれをとっても鍛え抜かれたチームが勝ち上がってくるのだから、それらと伍して戦えるための練習を想定すべきなのだ。
これは何でも同じで、マラソンに完走するなら一番最初にすべきは、マラソンに実際に出ることである。何キロしか走れなかったという実力と、42.195キロ完走との差が分かる。富士山に登りたいなら途中まででも良いから登ること。そうすればどこまで登れたか、どこが今の実力であるかが思い知らされるから、逆算してこれからどんな練習や準備をしなければならないかが分かる。
楽な練習をしていると適度に疲れるからやった気になってしまうが、練習は本番のシュミレーションじゃなくては意味がなくて、練習のための練習や、本番ではあり得ない楽なシチュエーション、本番では全く使えない技術を磨いても仕方ない。マラソンもいくら歩行から始めると言っても、歩いてばかりではいつまで経ってもフルマラソンを走れる様にはならない。いつか5キロ走り、10キロ走り、辛い思いもしてハーフを走ってみて、それでやっとフルマラソンを走りきれるのだと思う。
仕事も同様だ。幾ら研修したって、本番さながらの研修じゃないと意味がない。また仕事では即本番という場面が少なくないが、交渉相手を前に自力で厳しい場面を乗り越えてこそ実力が付くのであって、上役の陰に隠れていたり、自分の仕事だけやれば良いという事なかれ主義では修羅場をくぐり抜けるということにならず、いつまで経っても実力が付かない。
という訳で、まずは本番、力のなさを思い知ってそのギャップを埋めるべく努力するというアプローチが良いかと思います。

マネジメントの重要性

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どんな組織でもマネジメントは必要だ。また水球の事例で恐縮だが、中高生の練習を見ていても、同じ有望な選手が集まっていても、指導者の手腕でチームとしての強弱は全く違ったものになってしまう。
基礎練習を厳しくやるのも指導者の指導力が問われる。100メートルを何本も泳ぐとか(高校生の合宿では100本とかやっていた!)、立ち泳ぎや単調なシュート練習も肉体的精神的に辛い作業だ。それを一体感も持ってやり切らせるのも指導者にそれだけの力がないといけない。水球はボールを使ったチームスポーツだから、泳げる投げれるだけでは試合に勝てない。各選手の適性を見抜き、個別に役割を与え、チームとしての「正しい戦略」を立てて実行することが必要になる。泳ぎ勝つチーム作りをするのか、パワープレーを得意とするチームにするのか、個別には弱いメンバーであれば弱者の戦略をどう立てるのか、これはチームリーダー、すなわち監督のマネジメント能力に掛かっている。練習のためには強いチームと試合を沢山組むことも必要だし、OBやOGを呼んで目の届かないところをカバーして貰ったり一緒にプレーさせたりという、プールの外でのマネジメント能力も必要になる。加えて相手が中高生の場合は保護者にも理解を得ないといけないから、定期的に保護者会を開いて目指しているものや年間計画、それで子どもたちがどのように人間的にも成長するのかも納得してもらうことも必要だ。
会社も同じだが、組織というのは目の前の課題や顧客の要望など、「そこにある問題」は個人の能力や常識的判断力で何とかなる。しかしその際でもどういう判断基準に依って判断するのか、そもそも「そこにいることが正しいのか」(事業領域の問題)、どういうメンバーで戦うべきかという人選の問題、このままやってて数年後、10年後にその組織はどうなっているのか(正しく発展しているのか)と言った「そもそも論」を考える人は案外いないものだ。つまりそれが経営者の仕事ということになる。
「そもそも論」までいかなくても、そのプレゼンを誰がやるべきか、その案件は誰が担当すべきか、どれくらい手間やお金をかけるべきか、その案件が果たして重要か、どこが勝負所か等の戦局を分析して適性に資源配分するのも、マネジメントの仕事だと思う。
同じメンバーが集まっても、マネジメントの違いで結果も大きく違って来る。折角良いメンバーが集まって経営者のせいで結果を残せないのは大変申し訳ない事態で、だから組織は常に優れたリーダーが必要なんだと思う。母校の水球監督(後輩)を見ながらつくづく彼の責任の重さを感じたし、振り返って自分も同じこと(いやもっと重大)だなと思っていました。

個人の責任、組織の責任

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僕はワイドショー的な話題が嫌いで、だから最近のSTAP騒ぎも目に触れない様にしてきた。権威のあるネイチャー誌に掲載された論文が取り消しになったことは科学の世界では大事件だが、マスコミで騒がれているのはそんな科学的な事件の大きさではなくて、主任研究員が若い女性であって大きく話題を集めたと思ったら(話題を集めたのもマスコミだけど)、それが極めて未熟な内容であったという劇的な展開が主な理由だった。
今日はとうとう当人の上司で指導教官的な立場の人が亡くなってしまったのだが、経営者としての僕が感じたのは、どうして組織が守ってやれなかったのかということである。上司が部下をサポートして手柄を立てさせてやりたいのは普通のこと、しかしサポートしてあげた部下が実は能力がなくて、結果として上司の責任を問われるのも組織内では当然のことである。だが明らかなのは、たとえ社員の誰かに責任があったとしても、対外的には組織としての責任であり、特定の社員の責任にしても仕方ないし、内心経営者は「あいつがヘマやりやがって」と思ったとしても(はい、たまには僕も思います)、対外的にはその社員を守り、組織として責任を取る(例えば損害賠償責任)、または社会的に責任を取らなければいけない場合は経営者が辞任などして責任を取るというのが筋である。そうでなくて社員に必死でやるだけやらせて、失敗したら梯子を外して組織として守らないなんて、そんなことをしていたらそれこそ組織がもたない。失敗したら個人で責任を取らされる組織で誰が必死で働こうというのか。
人間はパーフェクトではないから、研究が出来ても脇が甘かったり営業が出来なかったり、コミュニケーション能力が不足していたり、能力にはでこぼこがある。悪意がなくて一生懸命やっていて、それでも失敗したのなら、それは組織がその人をフォロー出来ていなかったりする「組織的問題」だから、悪い結果の責任も組織がとるべきだということだ。この意味で今回の責任は、理研のリーダー、つまり理事長にあるんじゃないかと思う。
当社は個人の長所を活かしながらチームワークで動いている。勿論個人のパフォーマンスを高めるのも重要、しかし完璧でない部分はチームで補う経営、そして最終的には経営者の僕が責任を取るということでいいんじゃないかと思います。

パワープレー

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スポーツだと試合に出る人数はルールで決まっていて、サッカーだと11人、野球だと9人、水球だと7人となっている。コートの中にそれ以上の選手は入ることは出来ないし、一回交代したらその試合は出れなかったり(野球、サッカー)出れたり(水球、バスケットボール、アイスホッケー)、それは相手チームも同じだから、要するに同じ人数で戦うことになる。アイスホッケーの後半で、負けているチームが一点を取るために、ゴールをがら空けにしてキーパーも攻撃に参加することがある。それが人数制限の中で出来る苦肉の策、パワープレーである。
ビジネスの世界ではそういうことではなくて、ある局面で担当者以外の人間が介入することも可能である。一対一の勝負ではなくて味方にどんどん加勢してもらうことは可能だ。営業系の社員が普段は顧客に接しているのだけど、必要があれば技術系の担当者、IT系の担当者なんかも同行、または単独で顧客に対することも可能である。勿論その案件だけでなくて、そもそも会社自体が競合企業の中でも能力、人数が異なっていて、やはりある程度の規模があって、現場で役に立つ人たちが協力し合っている基礎がある会社は、たとえ顧客に接しているのが営業担当者だけであってもその対応には明らかに差が出て来る。営業担当者は色んな社内からのサポートを得て営業する訳だから、それらがない企業の担当者よりはよほど手厚い顧客対応が出来るのだと思う。
ビジネスの世界では折角「人数制限」がないのだから、そして折角組織内に「使える人材」がいるのなら、戦いの場に人数を入れ替わり立ち代わり投入して、時には「パワープレー」も行って顧客の要望に応えることが大事だと思う。それは反則ではなんでもなくて、むしろ力のある企業とはそういうものだと思う。当社も当然、勝負に勝つには「パワープレー」を多用している。「会社の総合力」みたいなものを活かすことが顧客のためになるし、そうやって当社も業績を伸ばしていきたいと思います。

現実をよく見ること

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最近よく思うのは、人々は自分の思い込みや理解力の限界の中で色んなことを考え、行動しているのだなあということだ。ネット時代だと沢山の情報があるから、正しく情報収集して理解の水準が社会的に上がって来ると思われるのだけど、事態は変わっていないか全く逆で、やはり自分の理解の範囲、往々にして偏見や正しくない情報に依って意見が垂れ流されたりする。何が正しいか、どんなフィルターが掛かっているかは関係なくて、「盛り上がる話題」が一瞬、大量消費されているだけな感じだ。
仕事でも同じで、聞いた様な話し、業界の常識、消費者が思っているに違いないと思っていることを無意識に前提にしてしまっていて、そうすると取りあえず「より安く」、「必死に顧客を説得して」というような非効率で正しくもない方向で頑張ってしまうことも多い。頭を柔らかくというか、事実をしっかりと自分の目で捉えて、世の中にある情報を吟味して、本来どうあるべきか、消費者は本当はどう考えてどう行動するのかをゼロベースで常に創造的に考え抜くことが必要だと思う。それは頭が良いとか悪いとかは関係なくて、どこまで知的に真面目に誠実に、やっつけ仕事にならずに仕事に取り組めるかという「姿勢」の問題だと思う。
「やっつけ仕事」をする人に限って、仕事に変な?充実感を感じて家に帰ってビールでも飲んでリラックスしている感じがする(これも偏見だけど)。本当の意味で仕事をしている人は、常に本当はどうなんだろうと頭が休まる暇がないし、逆にそういうモードでいるとオンもオフもあまりなくて、オンでも思考停止することなく頭を柔かく動かして好奇心を持っているし、オフでもそれは同様だろう。仕事なんだか遊びなんだか分からない様な、常に実態、現実をみて自分の頭で判断する、こういう姿勢が大切なんじゃないかなと思います。

シンクロニシティー

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シンクロニシティーとは、「意味のある偶然の一致」のことで専門用語では「共時性」と言うらしい。
僕もたまにあるのだが、あの人に連絡しないといけないなと考えていると山手線の電車の目の前に座っていたり、何年も会っていない人のことを思い出しているとちょうどその人から電話がかかってきたり、母校の屋内プールの温水化をずっと考えていたら、たまたま新幹線の中で出会った友人の連れが、まさにその設備を販売している会社の社長であったり、この手の「偶然」「奇遇」は僕にはとてもよくあることだ。
またシンクロニシティーは、「同じ様なことが並行して生ずる」意味もあると思う。これは良くない事例だが、当社が仕入れて販売する商品の不良が出てしまって必死に対応していたら、別の商品で同じ様な事例が出てしまう。先の事例で十分勉強して苦労した経験があるから、もちろん二度目はよりきちんと対応出来るのだけど、こういう事例って滅多に起こらないくせに、起こるときは次々と起こるのも不思議なものだ。
良い偶然も起こるし、悪いことも重なる。もしかしたら気がつかないところで潜在意識がそれらの事例を引き寄せているのかもしれないし、見えない問題点が臨界点に達して(例えば検品体制の不備)、表面上は次々と「たまたま」不運が重なっている様に見えるということなのかもしれない。
良い偶然を起こすにはどうすれば良いか?おそらく潜在意識に達するまでに強い願望を抱き、周りを見回してアンテナを立てること。正しい強い願望を抱けば、共鳴してくれる人も出て来るし、一見偶然に見えることでももしかしたら必然と言えるくらいの確率になってくるのだろう。という訳で、正しいことを行って、良きシンクロニシティーを起こしていきたいと思います。

同点は負け

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最近は毎日ワールドカップを観ている様な気がするが、予選リーグ突破のためには「同点で良い」場合と「勝たねばならない」時とで戦い方が全く違うことに気がつく。
試合は同点(0対0)から始まる訳だから「同点で良い」場合は現状維持で良い。すなわち「自チームがミスをしない」ことが優先課題になる。自チームがミスをせず失点しなければ、相手チームがミスをすれば勝ち、たとえ相手がミスをしなくても同点では試合を終われるからである。選手のプレーは安全優先でリスクを冒さず、ボールもゆっくり回して「チャンスがあればシュートを打つ」様な感じである。
一方で「勝たねばならない」場合は全く違う。0対0という「このままでは予選敗退してしまう状況」からのスタートだから、いわばマイナススタートだ。最初から全力で走り回り、なんとかして早い時間に先に得点して上記の「現状維持で良い状態」に持っていかないといけない。選手の必死さが違うし、このままで良いという甘えも全くなくなる。リスクを冒し前掛かりになり、プレーもアグレッシブになっていく。
ビジネスの場合は大抵「同点は予選敗退」の世界である。同じ様な商品を同じ様に売っているとしても、同等であれば企業の大小、イメージ、創業年数。既存客数なんかで勝ち負けが決まってしまい、大抵の中小企業は総ての面で大企業に劣るから、よほどのニッチでない限りは負け確定である。しかも実は0対0から始まるのなら良いが、これまた大抵はマイナスからのスタート、すなわち0対3とか0対5くらいから試合が始まる(市場参入する)ことが多いから、のんびりとパスを回している暇は全くないのが実情だと思う。
当社は常に挑戦者であろうとしているから、「同点では負けと同じ」と思って経営をしている。同じ商品、同じ程度のサービスではなくて、「明らかに優れているもの」を世の中に出して、圧倒的に勝てそうな戦略を取るべきである。それが中小企業が勝てる唯一の戦い方だと思うから。

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