水球から就活へ
もちろん水球で食べていくことはできない。それは受験勉強でも、大学を出ることでも、学生生活で勉強した内容が、そのまま社会で通用するわけはない。しかし、その時々で、与えられた環境で高い目標を設定して精一杯達成しようとする努力のあり方は、一事が万事、必ず活きてくるものだと言う。
社長ブログ
もちろん水球で食べていくことはできない。それは受験勉強でも、大学を出ることでも、学生生活で勉強した内容が、そのまま社会で通用するわけはない。しかし、その時々で、与えられた環境で高い目標を設定して精一杯達成しようとする努力のあり方は、一事が万事、必ず活きてくるものだと言う。
豊かさと言うのは、あくまでフローで経験することで貯まっていくものだ。収入があって、個人の銀行口座に入り、そのお金を個人が自由に具体的な体験のために使って、初めて(お金で買える範囲ではあるが)豊かな経験ができる。いくら銀行口座に預金があっても、いくら会社の株式や使ってない土地を持っていたとしても、それらを具体的に消費しないと、個人の体験に落とし込むことはできない。では富の蓄積ストックはどう考えるべきかと言うと、紙の上の離れた土地の権利書や保有株式や預金残高は個人にとって本当のストックを意味しない。それは単に紙に書かれたものというだけだ。それらは使って初めて富が具体化するわけで、そう考えると本当の蓄積された富は人の心の中にしか蓄積できない。死んでいくときに豊かな人生だったと思うのは、紙に書かれた資産一覧を見て言うのではない。富を使うことで豊かな経験をし、それが積み重なって満足した気持ちの状態を「豊かさ」と言うのだろう。
という事は、必ずしもお金だけが豊かさの決める要因ではないと言うことがわかる。紙の上の資産を増やそうと必死になったり、そのために人を裏切ったり、人から恨まれたりして、資産は増えたかもしれないけれども、友達も信頼できる人もいない。この様な寂しい人生は豊かとは言えない。お金がなくても豊かな自然に囲まれ、お金がかからなくても公園や山を散歩し、必ずしも高価ではなくても旬の健康的な食事を摂り、家族に恵まれ、友人にも恵まれ、一生懸命働いて、社会に貢献できる環境があれば、必ずしも紙の上の資産は増えないかもしれないけれど、心は豊かになっていくだろう。資産は心の中にしか貯めることができない。そのためには良い経験をしなければならない。そのためにある程度の収入は必要だけど、実際にそれを使って良い経験をすることが大切なのだと思う。
そういう意味では、会社が社員を豊かにすると言う事は、良い経験ができるだけの収入を増やす事はもちろん、この会社でなければできなかっただろう良い経験をさせてあげることだ。社会に良いこと、その人にとっても素晴らしい経験になるような仕事を考え、同時に収益を上げるような仕組み作りを行うことが経営者の使命だ。自分1人では行けないような場所に行けたり、できないような経験をすること、会えない様な人に会えること、それが会社で働く醍醐味である。そしてそれは一過性のものではなくて、何十年も継続して社員に安定的に提供しなければならない。この会社は安定していて潰れないと社員が安心して初めて、貰った給与も良い体験のために憂いなく使える訳だけだ。経営の目的が「社員の物資両面の充実を図ること」と言うのは、つまりはこう言うことではないかと思います。
カテゴリー: 経営日記
実力の10倍までなら追いつける感覚がある。いつも水球の事例で申し訳ないが、高校の時に初めて水球を始めて、「自分が今出来ると思っていること」の10倍はやらされた経験がある。高校入学当時はそれまで体育の授業で水泳が得意だったと言う位で、本格的な競泳はやったことがない。実際どれぐらい自分が泳げるかと言えば、素人同然だった。進学校の水球と言うマイナー競技くらい、子供の頃からスポーツが得意だった自分には楽勝だと思って入部したのだが、これがとんでもなくきつい体験だった。最初の練習では、いきなり400メートルが始まったが、もちろんそれまで400メートルも続けて泳いだこともない。それでもなんとか50メートルプールを4往復をすると、またもう一本と言われる。既に一本でヘトヘトなのに、合計で3000メートルも4000メートルも泳がされた。当然そのあとは水球の練習が続くのだが、「自分の実力の10倍やらされる」感じである。夏に入ると合宿があるのだが、この合宿がまたとんでもないもので、実力の10倍どころでない、本当に気の遠くなるような経験だった。
しかし若さとは恐るべきもので、なんとかこなせてしまうのだ。これが1年生が終わり、2年生、3年生となると、しんどいのはしんどいのだが、もちろん実力も付いてくる。いつしか中心選手にもなり、練習はしんどいのだけど、試合はそうでもなくなってきた。何試合やってもそれなりにプレー出来るようになってきた。
その頃から、「今の実力の10倍は実現可能」という変な方程式?が自分の中で生まれた様だ。大学受験の時も当然浪人したのだが、遠く及ばない志望校を目指すと決めた時も、「今の実力の10倍」が基準になっていた。試験で80点取らないといけないのなら、今の実力は8点でも大丈夫。極端にいえばそういうことだ。マラソンを始めた時も、5キロ走れたら本番で42.195キロは大丈夫という変な自信があった。会社経営をしていても、今の10倍は十分現実的な?射程範囲内だと思う。実際、この25年掛けて、事業承継時の10倍以上の売上、利益は100倍位になったと思う。そして今でも現在の実力の10倍はやれそうだなといつも思っている。
根拠のない自信と言えばそうなんだけど、僕の経験上、実力の10倍はいつか達成可能と思っている。多分人間の可能性はそういうものだと思っています。
という訳で、そろそろ動こうかなと思っています。
当たり前だけど、社員は会社の業績に対して役割、責任を持つべきで、そのためにパフォーマンスを発揮すべきだと思う。
社内外の会議や打ち合わせ、面談においては、その会議中にリアルタイムで気の利いたことを言えなくても、事後で良いから議事録をまとめたり考察を加えたり、何らかのフィードバックをしなければならないと思う。発言しない、事後にも貢献しないでは、その社員のバリューはないのではないか?
もっと言うなら、社員は全員、会社の損益計算書の数字に何らかのインパクトを与えなければならない。自分が頑張ったから売上が上がった、自社開発の製品をリリースしたことで利益率が向上した、学会で発表したので認知度が上がって売上に繋がった、仕入れ先と交渉して原価率が下がったなど、自分の行動が会社の決算書にどの様にどの程度表れるかを意識して行動して貰いたいと思う。
当社はフィロソフィ(考え方)を重視していて、素直で正直で人格に優れた人を採用しようとしている。フィロソフィを重視するというと、結果はともかく「良い人」の集まりで居心地だけは良い環境と誤解されてしまうことも多い。でも実際は居心地が良いだけでは、会社は長続きしないし、何より居心地の良さを支える収益性が劣っては、絵に描いた餅みたいな話になってしまう。当社が成し遂げたいのは、自社だけに留まらずに「業界全体」もしくは「社会」に対して真摯に向き合って世の中が良くなる活動をしつつ、だからこそ同業者の中で最も支持され信頼され、その期待を裏切らない製品を開発したりサービスを提供するから結果的に高収益になるということだ。これは生半可な努力では出来ないし、毎日毎日が真剣勝負、間違っても「ぬるま湯」的なことであってはならないと思う。
そういう「高い目標」を掲げる会社においては、社員一人一人が勘違いすることなく、「どうすれば、社会貢献を行うことで具体的に決算書の数字にどれだけ貢献できるのか?」と言う難しい問いに向き合って、日々自問自答して「誰にも負けない努力」を継続すべきじゃないかなと思います。
また会議の話である。
経営層が月次とか週次とかの定例会議で、結果について何かとコメントをする。極論、それって本当に無駄だと思う。
月次報告とか週次報告は結果のまとめであり、もしくは今月の着地見込みだったりする。でも見込みであったとしても要するに結果を予測するという事だから、「近い将来の結果」について議論しているのに他ならない。
もし経営者、管理職が優秀なら(多分そうだろう)、コミットすべきは日々の意思決定だと思う。まさに今日この時のアクションによって結果が変わってくるのなら、コミットすべきは結果報告へのコメントでなくて、その時そこにいて正しい判断と指示を行うべきだ。つまりプロセスにコミットしなければならないと思う。
結果をまとめる作業はシステムで出来る(つまり見たら分かる)。それを一々初めて聞くような顔をして分かったようなコメントをするような管理職は要らないと思う。毎日「ここいま」に集中して、ふと振り返ったら立派な結果が集計されていたという方がずっと生産的だと思う。
当社ではSlackと日報ソフトを活用して、毎日毎日意思決定をしている。だから週次とか月次の会議ではあまり決めることがない。むしろ目の前で決めることがないものだから、将来像とかまだまだ完成しない新商品のこととかをダラダラ喋っているのが当社の会議だ(中途採用の人には最初呆れられる)。稟議もないし(その瞬間にSlackで聞けば良い)、着地見込みとかも作らない。あくまで「いまここ」に集中してその時その時に議論をして意思決定している。
もう20年以上もこのスタイルでやってるのだが、世の中の組織もだんだんそうなってきているような気がします。
カテゴリー: 経営日記
セミナーを多く開催し、社員教育の必要性や個人面談などを通じて「社員に寄り添う」ことを推奨している当社の僕が言うのもなんだけど、当社では、社内的にはほとんど研修や個人面談、ましてや人事評価を行なっていない。当社の社員が研修が必要がないほど優秀だとか、個人面談を行うほど社員を大事にしてないとか、公正な人事評価を行わないほど旧態依然でブラックだと言うことは全くないのだが、それでも社外に言うことと、実際に当社で行っていることが真反対に見えることはなかなか説明が難しい。
社内での僕の理屈はこうである。人材は経験で磨かれる。当社は無茶振りとも思われる仕事や、セミナー開催などの外に向けた利他的な業務、個別案件やトラブルに対する判断に当社の考え方が表れている。かしこまって座学で勉強するよりも、実際の仕事を通じて「当社の考え方・仕事の進め方」、「社会人としての成長」が実現出来ると言うことである。
とは言っても、以心伝心というのも難しい。数十人くらいなら社内の雰囲気で何が筋が良くて何が悪いのかは伝わってくるが、段々社員が増えてきてまた世代が異なる人たちが混在してくると、やはり何か分かり易い目安の様なものを示す必要性も出てくる。
一般的な企業では、経営に余裕が出てくると社員研修、人事評価などを明文化・標準化し、役員・社長面談という形でかなり時間と労力を掛けて個々の社員に寄り添っていく。それはそれで必要なことだと思うけど、社内にそれだけエネルギーを掛けること自体がどうも踏み切れない。理想の職場とは、そもそも価値観が似ていて、お互いに謙虚にして驕らず、利他的な目的のために自らが努力が出来る人たちだけが集まっていれば、社内の調整や教育や寄り添いなどはあまり必要がない場所だと思う。
まあそんな理想的な集団はなかなかないので、よほど目についたことやこれはあかんなと思うこと、当社の考え方として筋が悪いなというものは個別に指摘することにはしている。それでも社内よりは世の中に対して、目の前の個別案件や顧客に対して99%の力を割り当てる(社内は1%)会社でありたいとは思っています。
で、最近強く違和感を感じるのは、オリンピック選手に対する批評(ならまだしも)、誹謗中傷の声である。試合に負けて大泣きした柔道選手をみっともない、武道の精神に反すると非難するのもどうかと思う。喫煙・飲酒で辞退を余儀なくされた体操選手に関しても、巷でもマスコミでも賛否が分かれる大騒ぎになった。バスケットでもハンドボールでも、強豪に惜しくも1点差で負けた試合があったが、それを「最後の最後で勝利に対する執念が足らない。」と「批評」するSNSの投稿もあった。
しかし、オリンピック選手は、出場し勝利するために尋常でない努力と才能を傾けてきた「超人」である。(もちろん僕も含めて)ただの凡人が軽々しく批評できる存在ではない、と僕は思っている。オリンピック選手は、日々尋常でなない鍛錬をして、厳しい日本代表選考会を経て本番の舞台に立っている。「本当に、一人一人が人生をかけて、全てをかけて頑張っている」様な超人に対して、クーラーが効かせてでビールでも飲みながら批評、批判するのは、自宅やプライベートの空間で呟く、仲間と酒の肴にするものであって、選手の目に付くSNSなどの場所や公共放送で物知り顔で言うべきではないと思う。